幼友達 第2章



彩子の両親が離婚したのは、私の両親が離婚した少し後だった。
私も彩子も6年生。
多感な少女がちょっぴり大人の門を躊躇しながらも順番にくぐって行くような時期だった。
友達が初潮を迎えれば、自分もいつなのかと不安に思いながらも心待ちにしているような。

ピアノが家に無いので、新しく出来た仲良しのお友達の家に有るピアノを、
頻繁に弾きに行くようになり、そんな頃、私は彩子のママに自分で電話を掛けた。
「ピアノを又教えて下さい。」と、
私が引っ越した先から、彩子の家までは、市街地まではJRで出て、バスに乗り換え、
ウネウネと曲りくねった七曲がりのつづら折れの山道を上って行くか、
反対側の団地経由で上って行くバス路線も有る。
どちらも自分の家からは一時間半から二時間かかる。
自分でバスの時間を調べ、そのバスに丁度いいJRの時間を調べる。
調べると言っても今のようにパソコンで調べるのではないから、
104の番号案内で電話番号を調べ、駅やバスの営業所に直接電話を掛けて丁度良い時間の便を教えてもらう。ちゃんと丁寧な言葉遣いで。
小学生なのに、そんな生きる知恵は持っていた。
大抵の大人は、子ども相手だから、とても丁寧に感じ良く教えてくれた。
彩子ママは、忙しかった。
ピアノを教えるよりも、起業家としての仕事がおもしろくなっていたのだろう。
毎週定期的に同じ時間を取ってもらえる訳ではなかった。
同じ時間、同じ場所でのレッスンは望めなかった。
4〜5カ所持つピアノ教室を彩子ママが一人で回れる訳も無く、
いつしか、講師を雇うようになっていったのだが、
私がもう一度教えてくれと頼んだ頃が、丁度その過渡期だったのだと思う。
暫くしたら、東京の名高い音大出の、若くて素晴らしい演奏をする桃子先生を紹介された。
音大を卒業してすぐに、親のいいなづけと結婚してご主人の職場のあるこの町にやって来た桃子先生との出会いは、私の人生の最も素晴らしい出会いだった。
ピアノこそ、彩子ママに習わなくなった私だったが、
彩子ママは、しょっちゅう私と彩子を一緒にさせた。
私達が仲良くなるよう仕組んでいるかのように、彩子の事に私もつきあわせるかのように、
色んなところに私を一緒に連れてい行った。

離婚当時、ママと彩子を含む四人の子ども達は、ママの実家に身を寄せていた。
保育園から徒歩3分の場所だ。
うちにピアノが無かった私は、休みの日に彩子の家に遊びに行くついでに
保育園のピアノで練習も出来たしで、誘われればその誘いのまま、
断る理由など無かった。
帰りのバスの便をバス停に見に行こうとする私を、彩子ママは必ず引き止めた。
「橙子ちゃん、今日はもう泊まって行ったら?」と。
今思えば、車で送って行ってやりたいが、面倒な気もするママの気持ちも分らないではない。
そういう事に気を使うような人ではないうちの母の呑気な性分も、
ママを時には苛つかせていたのかもしれない事は想像がつく。
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# by robinnest | 2012-01-17 20:58

幼友達 第2章

2.
彩子の家は、山の中の田舎集落に有る。
バスだって、一日に何本かしか通っていない。
市街地から七曲がりと言われる程のうねうね曲がりくねった山道を
ひたすら上り続け、昔、峠の茶屋が有ったような場所を通り越し、
初めて辿り着く田舎集落。
そこは団地なんかではないし、まして、商店街やスーパーなんて物も無い。
有るのは、農協、酒屋、マーケット、学校、公民館、
そして、彩子ママが経営する幼稚園、保育所、それに老人ホームきりだ。
後は、畑、山、民家、それにバス道。
同じ名字の家が何件も有ったりする。

そもそもあんな所に、40数年前、保育園が出来た当時は、
兎に角目立っていたろう。
看板も、遊具も、建物も、あれよあれよと数年のうち、
園児の数が増えると共にやり替えられ、
園バスは、日に何度も遠くの団地や隣の集落から園児を運ぶのに忙しかった。
バスを運転していたのは、彩子のパパ。
主事先生とみんな呼んでいた。
私が幼稚園の頃、私のうちも、丁度峠の茶屋から少し里に向かって下りた所の
彩子の家の集落と負けず劣らじ、小さな田舎集落にあった。
そこまでの道のりは長く、
保育園からだと多くの団地からやって来る園児の家とは方角も異なり、
園バスのコースは田舎回りと呼ばれていた。
彩子パパはいつも、最後に降ろす私ともう一人の男の子だけになったら
決まって歌い出す。
「田舎のバスはオンボロバスよ。でこぼこ道をガタガタ走る♪
それでもわたしのせいじゃな〜い♪ってねぇ〜」と。
愉快そうにハンドルをつかみ、時々私達の居る後部座席を振り返りながら。
彩子パパは喋り方にちょっと福岡弁の訛りがある。
それが余計に人柄よく、暖かみのある感じに聞こえる。
髪は天然パーマで、顔は
「アーア〜アいやんなっちゃった、あ〜あーあ驚いた」の
牧真二さんのような感じ。幼心にあのテレビでウクレレ持って出て来るおじさんに
何となく似ている主事先生を、面白いなぁと思っていた。
他の子ども達も同じで、主事先生には、よくふざけた調子で話しかけていた。
「主事先生」と云えなくて、「シューズ先生」で通っていた。
少ししっかりしたませた子がいて、「シュージ先生だよ」
としきりに他の子の言い方を直していた。だから、私は素直に、
「修二」という名前なのだと思っていた。
だけど、本当の名前は彼が胃がんでこの世を去ったあとも、知ることはなかった。
休みの日には、バタバタとエンジンのうるさい青いホルクスワーゲンに
家族を乗せて、出かけるのが好きなパパだと聞いていた。
園児達は、いつも園バスの前に停まっているこの青い丸いカブトムシフォルムの車を、
「ボロクソワーゲン」と呼んでいた。
その方が呼びやすかったというだけの理由で。
彩子パパは運転がとびきり上手くって、車好きな人だった。
彩子が車の免許を取ってからも、
パパの車を我が物顔で乗り回していた彩子だが、
彩子はいつかこんな事を教えてくれた。
「パパはね、いつも車を運転しながら、今こんな事故が目の前で起きたら、
自分はどうするかって考えながら運転しなさいと言うのよ。
例えばね、今トンネルの中を走ってるとする。前方で火の手が上がり、火災が発生したとする。
そうしたら、彩子、どうする?って聞く訳。」
私も、親子がパパに問いかけられたのと同じように、彩子に問いかけられた。
私は「さぁ、どうするかなぁ。車を降りて反対今着た道を一目散に引き返すかなぁ。」
「パパの考えはね、すぐさま反対車線に出て、ずっとバックでトンネルの入り口迄戻るって事よ。」
そんな風に、彩子のパパは、我が子が自ら自分の身を守る道を教えて行くような人だった。
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# by robinnest | 2012-01-17 20:50

第2章 幼友達 1

子どもの頃の生活環境が、ある日を境に一変してしまうという経験は、
両親の離婚、引越し、転校、、、住環境の変化から来る人間関係の総入れ替え、
というように、その後の私の人生を大きく変えたように思う。

私も彩子も、同じように両親の離婚経験を持つ。
ただ、彩子は転校もせず、住む場所も変わらなかった。
私は、それ迄育った町を離れ引っ越さなければならなかった。
同じ市でも、端から端へ引越したせいで、友達関係は全て断ち切られてしまった。
ある日を境に、全く生きていくステージが変わるのだ。
先生も友達も、通い慣れた学校への道も、近所のお店もわからない、
全く土地勘の無い場所へ、ある日いきなり住む。
引越した次の日から、母は仕事に出ていたので、
学校から帰ってきても見慣れぬアパートに一人、鍵を開けて入らねばならなかった。
そこに、ピアノは無い。
ピアノでもあれば、気持ちも慰められたかもしれない。
弾き慣れた楽器は、持ち出せなかった。
母は、又いつか買ってやるとも、習わせてやるとも何も言わなかった。
母は、少しだけ柔和になった。柔和になったと思ったが、本来、
こういう人なんだ、というのを、小学5年生のその歳になる迄知らなかった。
私はと言うと、性格は暗く、生真面目な、神経質な子ども、に変わってしまったかもしれない。
それ迄は、自分から何もしなくとも周りには明るいグループ。
親なんて必要ない位、飛び回るように遊んでいる子だった。
自分が一人で寂しいなんて思ったことはなかった。
いつも読みたい本を探し、選び、借り歩くのが上手で、
余り親しくないクラスメートでも、児童全集を持っていると聞けば、
帰り道に大きく道を外れて、その子の家迄借りに行く。
そうして、自分の家までの道のりの倍も歩いて家に辿り着く。
そんなことをしながら、毎日なんだかんだ楽しかった。

それが、知らない土地、知らない学校、先生、クラスメート、顔なじみの居ない近所、
そういうものに囲まれて生きるようになると、変わろうと思わなくとも、
人の顔色をうかがい、人に気を使い、自分が人にどう思われているかをいつも気にする
神経質な子どもになっていったのかもしれない。

土台が外されたような気分。
それ迄の私の人格も、子どもなりに積んで来た努力による活躍も、
私というキャラクターが演じて来た舞台が、
もう、昨日迄とは違い、誰も、それ迄その舞台で繰り広げられて来た
お話を観たものはない。
私がその立ち慣れた舞台の上で毎日毎日演じて居るあいだ、
同じようにして、又別の舞台で私抜きで勝手に繰り広げられていたであろう別のお話を、
教えてくれる者も無く、明らかに居ても居なくても良い脇役か、控えの役者のように、
自分の立ち位置が分らないまま演じなければならないのだ。
転校してからの半年程は、そんな面持ちで毎日を過ごしていたのを今でも覚えている。
弟の保育園に自転車で迎えに行ったり、家事全般、それぞれの半分は自分が関わった。
例えば、洗濯機を回すのは母でも、脱水して干すのは私だったり、
干してあれば、私が取り込んでたたんだり、
布団も、家族皆の分を私が敷いた。
お風呂も沸かし、弟を連れて入った。
母と買い物に行った覚えが一度も無い。
いつも頼まれた物を買いに行ったりした事しか思い出せない。

兎に角、思い出せば思い出す程、
今自分が、母として子ども達の為にやっている事からかけ離れている。
きっと、私は、自分が子どもの頃寂しくて埋められなかった
普通の家庭の普通の事を、一生懸命やっているだけなんだ。
子どもにも、主人にも、自分にも。
それは、誰に頼まれている訳でもないけど、自分がそうしたくてしているに違いないのだ。

私は、子どもに家事をさせない。
させないというより、やってもらおうとしない。
当てにしていないし、やってもらいたいと思ってない。
たまには、洗濯物を取り込んだり、お米を研いでおいてもらったり、
頼む事は有るが、役割として、その責任を負わせるような手伝わせ方はしていない。
する必要が無い環境、といえばそうかも知れない。
私は働いていない専業主婦だし、昔よりも、家事にかかる手間も減って来ている。
人に、増してや頼りにならない子どもに頼むより、
衣類乾燥機だの、自動食器洗い機に頼る方が、
文句も云われないし、相手に気も使わなくて良い。
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# by robinnest | 2012-01-17 16:09

幼友達12

私は、彩子ママ主催のフラダンスの発表会という催しに招かれた。
water flont のシティホテルの宴会室を3間ぶち抜いた会場に、
生徒の関係者三百人以上が招かれ、自由に好きな飲み物や食べ物を取りいくバッフェ形式のパーティだ。
最初に、ママが明るい色のフラ衣装で幕が上がる前のご挨拶に現れたかと思うと、
いつもの喋りはなしに、いきなり音楽が流れ始めスポットライトは舞台上の一人に当てられる。
ゆっくりとした抑揚のある音楽に合わせて、
ひざを折って腕を頭上に仰ぎ踊るママの姿が映し出される。
とても若々しく可愛らしい姿に、ママの歳を忘れる程だ。
彩子はホームビデオを片手に舞台のすぐ傍まで寄っている。
私も近く迄行って見ていたが、舞台近くの席には、見覚えの有るママの側近の職員達が陣取っている。
宴会場は広く、舞台に注目している客は少ない。
後ろの方になると、舞台で何をやっているかんなかはそっちのけで、
料理を取りに立ち歩く者、飲み物を手におしゃべりに花を咲かせている者が殆どだ。
やがて幕は上がり、次から次へと、団体演技が繰り広げられる。

私が座った席には彩子の他に、彩子のすぐ下の弟夫婦に、その友人、
それから、彼の側近が数名。
私は彩子と、彩子の姪ッ子の隣に座っていた。
卓也は、Jr.だから今はナンバー1。
入れ替わり立ち替わり、見知らぬ人が挨拶に来るのに、対応が忙しい。
卓也と私は初め数十年ぶりに挨拶を交わした時は互いに牽制し合っていた。
少々酒のせいでくだけた調子になった私は、相手の懐に直球を投げ込んでみることにした。
立派に園長職をついで、独立した幼稚園を立ち上げ、
奥さんと一緒に切り盛りしている卓也が私を見る目は、鋭く冷たかった。
十八年ぶりに自分たちの前に現れ、姉とママに急接近して来た私を明らかに警戒している様子が感じられた。
もう、立派に幾波乱も超えてここまでやって来た苦労が、彼をそうさせるのか、
人を見る時に、相手の腹を探るような鋭い目つきは経営者の性だろうか。
そんな第一印象は脇へ押やり、場の雰囲気に合う話を探した。
「昔、あなたが作った戦艦大和のプラモデルを、私が壊しちゃって、
『ごめ〜ん』の一言で立ち去られたってことを、あなたは未だに根に持ってるって
彩子から聞いたわよ」
いきなり、そんな風に昔の記憶を掘り起こされた卓也が突然大声で「そうだ、そうだよ、そんな事有ったね〜!」と笑い始めたので、隣に座っている卓也の奥さんらしき人は私をいぶかしげに見つめた。まるで、「私の知らない卓也の子ども時代のことをあなたは話しているのね」という疎外感を含んだ表情だ。
私は、こういう所が、同性のウケがよくない所以だ。
それでも、一気に打ち解け、距離が縮まった感じで、私はいつしか卓也の隣に座って彩子のことやら、ママの事、そして今の卓也の仕事の話などを種にして話し始めた。
そうして、私の席の前に座っていた卓也に一番近い部下の石田君にも、幾つか質問をした。
最近の彩子ママの仕事ぶりや、部下から見たママの経営者像などを探ったりした。
私には、若干29歳の石田君が、どうして卓也の側近で、副園長なんか務める事になったのかも知りたかった。
石田君は私達の話の輪には決して加わらなかった。
自分の中で線を引いているみたいに、立場をわきまえていた。
それでも、私は他にも聞きたい事は聞いてみた。
「理事長の事は好きなの?」
「結婚はしたいの?」「子どもは欲しいの?」
「つきあっている人は?」
なんだか、これじゃぁ近所の世話好きなおばちゃんが見合いを進める前に詰め寄ってする質問だ。
彩子は聞いてない振りをして耳をそばだてている。
「ちょっと、失礼な質問ばっかりしてない?」
そんなことをやっていると、あっちでは卓也の周辺では、私と彩子の妹、麻理との比較研究論を繰り広げているようだ。
彩子はいつも麻理と私が似ていると云って、二人を重ねて見る癖が有るので、卓也もそうなのかとうんざりしてきいてると、
「橙子ちゃんは、僕たちサイドに着いてた方が良いよ。ママサイドじゃなくてね。」なんて私に言ってる。
後を継いで行く立場といえども、今迄も今も尚、ママに引っ掻き回されてばかり居る卓也はそんなママに敵意を抱いているのだろう。
対立、批判、反発、憤り、色んな感情が、親子故にうずまいても不思議は無い。
「橙子ちゃんは、ママの前では平気で僕らにさっきまで云った事と正反対の事を言ってみせるんだからね、今こうやって僕らとママの悪口云っててもね、信用出来ないよ。」
「あら、私はママも好きなのよ。それは事実なんだもの。両方本心よ。」
なんて云ってると、彩子が「あの〜ちょっと、後ろに居るんだけど、後ろ後ろ」
と云うので振り返るとそこにはママが立っている。
「どう?楽しんでる?」
「あ〜、先生、フラ、可愛かったですよ〜。そうそう、今ね、この人たち先生の悪口云ってましたよ〜。」
って私がわざと皆の方を大げさに指差して云ったので、一同大爆笑となり、
「ほらね、今俺が云った通りでしょ〜!!信じられない。橙子ちゃんってそういう人なんだよ!ねっ!姉ちゃん、信用しない方が良いよ〜この人は。平気で裏切るんだから」
彩子も弟に合わせて、私を一人遠ざけて笑っている。
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# by robinnest | 2011-11-16 22:14

幼友達11

彩子のママは、放任、溺愛、過保護、過干渉、
そのどれというのでもなく、かなり愛情に深いタイプだと
私は思う。
普通に我が子が可愛く、世話は焼かない代わりに
自分の身の一部のように扱うのに近いというか、
身を分けた分身のように考えて疑わない。
悪く言えば、そういうのを周りから見ると
一人の人間として認めていない、自分の所有物のように扱う、
と云われても仕方が無いかもしれない。
でも、決して冷たいとか、非情だとかいうのではない。
それでも、ママは実業家だ。
仕事が第一、と周りは見ている。
子ども達迄もがそう感じる事は仕方が無いかもしれない。
子どもを犠牲にして、自分のやりたい事をやって生きている癖に
自分達を縛る、強烈な存在。
そう思って反発するくせに、逃れられない愛情の密で自らををがんじがらめにして生きている。
それが証拠に、一度は出て行った彩子が、
こうしてママの元へ帰って来たのではないか。
絶対にもう帰らない、と心に決めて出て行った彩子が。
やせ細り、拒食症になり、自殺願望を抱えて放心状態で着の身着のまま
幼い櫂を連れて、この広島の地に戻って来た我が子を
ママはどんな気持ちで迎えたのだろう。
身の回りの物を選別もせず詰め込んだのはカバンではなく布団袋。
それを引きずりながら、子どもを抱きかかえ、ホームで見知らぬ人に
「それを持ってあげるから、あなたは子どもを落とさないようにしっかり抱いて歩きなさい。」
と、改札口迄代わりに持ってくれたというから、余りにも、見る人に哀れで不憫な思いを
抱かせるような出で立ちだったのだろう。
まだ1歳半の櫂は、そんな母親に連れられて、
なんとか生き延びられるママの元へ辿り着けたと言う訳だ。
彩子は実家に戻り、何も受け付けず、外へも出ず、ママと兄弟以外の誰とも話をせず、
3ヶ月を過ごした。
カウンセリングに通う事になったのは妹の強い勧めからだ。
水と油のような相性の悪さで、絶対に仲良くはなれないと私は見ていたその妹の介添えで
彩子は救われたのだ。
後で数えるとカウンセリングには14回行ったと聞いた。
呼吸法、考え方の転換、何より、誰にも吐き出せなかった今迄の思いを全部吐き出しながら
彼女は徐々に楽になっていったのだろう。
彼女は今、誰の事も恨んでは居ない。
そして、自分のことをも許し、嫌いではない自分になれたのだろう。
ただ、自分にはどうしても無いものを埋めるのは
運命に頼るしか無く、欲しいからと言ってすぐに手に入る物でもない。
それはお金で買える物ではないから。
彩子も、ママも、あそこの家の人はみんな、お金に頓着しない。
お金に困った事が無いから。
そう意味では悪気が無く、それ故に質が悪い。
人も同じだと思っている訳ではないだろうが、分らないのだと思う。
人間、自分が経験しないと、人の気持ちは分らない。
彩子は、そう、お嬢様かもしれない。
お金の使い方も、人とのつきあい方も、物の考え方も、ある意味分っていない。
生活費はママがお給料として支給し、それに替わるだけの労働はない。
彩子はシングルマザーで、櫂の教育費は彩子ママが給料以外の所で援助しているのだから、
彼女が支払う物は、家賃、生活費、被服費、交際費だ。
実家に身を寄せているうちは家賃も必要なかったし、外出もカウンセリング以外はしなかった訳で、
貯金は溜まって行ったことだろう。
でも、次第に元気になるにつれ、ママとこのまま暮らしては行けない、
自分自身の生活の場を持ちたいと、動き始めた頃だったのだろう。
私が18年ぶりに彼女にコンタクトを取ったタイミングは。
結局、私の母が生業にしている不動産とは関係ない取引で
彩子は新居を決めたのだが、彩子は申し分の無い、素敵な住処を見つけ、
さっさとママの家を後にした。
そしてそんなママが寂しい思いをしているだろう頃だった。
私と彩子ママが同じく18年ぶりの再会を果たしたのは。
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# by robinnest | 2011-10-17 20:54